2005年

ーーー3/1ーーー 修理のための出張

 
母校の大学教授から、教授室に納めたデスクの調子が悪くなったからなんとかしてくれとのメールが入った。昨年、アームチェアCatとセットで入れた、サブロク(甲板の大きさが3尺×6尺)のデスクである。その引き出しの一つが開きにくくなったとのこと。早速電話を入れて様子を聞いた。教授の話から判断して、湿度の変化による部材の収縮が原因と思われた。この手のトラブルは、ムクの木材を使った家具では普通のことである。しかし、私にとっては、どのような原因であろうとも、出張して修理するほどのトラブルは、過去15年間で一件も無かったので、一寸身構えた。

 教授は「東京に出て来るついでの時で良い」と言ってくれた。しかし、製作者としてはユーザーに迷惑をかける時間はできるだけ短くしなければならない。それに、東京に出る用事など、滅多に無い。教授の都合に合わせて、5日後に出向くことにした。

 軽トラックで穂高を出たのが午前8時。途中渋滞もあって、4時間半かかった。教授は昼食に出ていて、不在だった。秘書の案内で部屋に入ると、机と椅子が異彩を放っていた。オックスフォードやケンブリッジ大学ではどうか知らないが、日本の大学では教授室と言えどもスチール家具の世界である。実用本位は結構だが、なんとも味気ない。そんな教授室を見慣れた目には、ムクの木材できちんと作られた机と椅子は、まことに新鮮に映る。

 不具合の原因となっていた引き出しの側面をカンナで削り、修理は10分で終わった。教授が戻るのを待って、挨拶だけして引き上げた。

 この用事だけで東京を往復するのは、あまりにも時間と金がもったいないと思ったので、あらかじめ新木場の材木屋へ連絡を入れておいた。材木を買って帰ろうというわけである。そうすれば、少なくとも材木の輸送費ぶんは浮くことになる。大学を後にして、首都高速を通って新木場へ。材木屋で一枚づつ板を選んで軽トラックに載せ、代金を現金で支払って、帰路についた。

 中央高速道で東京から外れる頃、夜になった。山間部を通過し、笹子トンネルを抜けると、目の前に甲府盆地の夜景が広がった。山間部の静謐な闇から、突然光の洪水に直面させられた。停車して眺めることができない状況を恨めしく思うほど、息を飲む光景であった。 

 

ーーー3/8ーーー スペシャル・オリンピックス

 
SO(スペシャル・オリンピックス)を見に行った。場所は白馬のクロスカントリー競技場。私にとっては、長野パラリンピックのときにボランティアをやった、懐かしい場所でもある。

 車で競技場に近付くと、道端に誘導係の青年がいた。私は窓を開けて、駐車場についてたずねた。彼は軽い知的障害者のようであった。ゆっくりと、たどたどしく、説明をしてくれた。観客用の駐車場はずっと遠くにあり、そこからシャトルバスで会場まで来ることになっている。この先は本来ならIDを持っている車しか入れない。でも今日は空いているので、一般車も路上に停められるようだ。このまま進んで、係員の指示に従ってくれとのことだった。それにしても、説明しながら絶やさなかった彼の微笑みは、なんと大らかな優しさに包まれていたことか。

 競技会は、ごく普通であった。スポーツの大会というものは、テレビで見ると、やたらアナウンサーや解説者が言葉を入れるせいか、やけに仰々しく大袈裟なように感じる。しかし、実際に競技場へ行って見ると、思いのほか地味で素朴で純粋なものである。その純粋さに打たれ、スポーツも良いものだと思ったりする。この競技会もそうであった。

 もちろん、一風変わったところもあった。50メートルレース。先頭が20秒ほどのタイムでゴールインした後、4分くらいして最後の選手がゴールに入るシーンもあった。これは、普通の競技会では見られない光景かも知れない。しかし、そんなことは別に何の問題でもないのだ。ここは学校でもなければ、会社でもない。たとえ時間がかかろうとも、一つのことに熱心に努力する人間の姿を目の前にして、感銘を受けこそすれ、嘲笑するような者は、ここにはいない。

 私のような凡庸な人間にとって、ここで強いて問題点を指摘するならば、現代社会をがんじがらめに縛りつけている能率とか効率とか成績とかいうものに対する疑問が、何故このような機会にしか意識されないのかという、ある種の自責の念にかられることであろうか。

 多くの人が集まる場所には、喧噪と猥雑と、自己中心的な邪悪さと険悪さと、その反面他者との距離を保つための残酷な冷淡さとが、程度の差はあれ存在するのが常である。しかしこの競技場は、とても穏やかで、楽しい雰囲気に包まれていた。時間がゆったりと流れているようにも思われた。競技を見終わって会場を離れる時、なにか根源的な充足感のようなものを感じた。白銀の美しい自然の中で、この感覚はひときわ新鮮だった。



ーーー3/15ーーー 「運命」の運命

 
マニアとして気に入っている事が、なかなか人前では言い出せないことがある。「ヨン様大好き!」などと騒ぎ立てている中年婦人たちは、回りの状況に便乗することで気分が盛り上がるのかも知れないが、世俗から少し離れた分野では、他人が知らないことを自分が知っているという優越感が、マニアとして味わいたい蜜の味である。それゆえ、自分の正直な気持ちとはうらはらに、普通の人から「それなら私も知っている」と言われてしまうような話題は、言い出しかねるのである。

 ベートーベンの交響曲第五番「運命」も、なかなか一筋縄ではいかないしろものである。この曲を愛している人はごまんといる。何故ならば、言うまでもなく素晴らしい音楽だからである。しかし、「この曲が大好きです」と言明するのは、クラシック愛好家として躊躇するのではないだろうか。それは、この曲があまりにもポピュラーだからである。誰でも知っている曲を好きだと言うのは、自分の地位が低く見られるような不安があり、心中穏やかならざるものがある。

 どうやらこのような悩みを感じている人が多いらしい。まるで「隠れキリシタン」のようでもある。「運命」を口にすると、クラシック・マニアの中で初歩的な部類と見なされるようで怖い。だから、じっと黙っている。でも、「運命」がけなされるような事態に遭遇すれば、その時は黙ってはおれない。最後の一線を守るプライドは有る。とは言うものの、「踏み絵」を突き付けられない限り、ひっそりと自分の胸に留めたい。

 多くの人から好かれてはいるが、あまり話題になることも無い。「運命」はそのような運命にあるのだろうか。

 ところで、「運命」と言えば、面白い出来事を思い出した。ヘルベルト・フォン・カラヤンが日本で公演したとき、それを某テレビ局が特集に組んだ。そして、こともあろうに、演奏が終わった直後のカラヤン氏を、某女優と某野球監督のコンビが舞台裏で待ち受けて、サインをねだるという趣向をやってのけたのだ。そのときの演目が「運命」であった。

 曲が演奏されている間、会場に据えられた数台のカメラが、色々な角度からカラヤン氏の指揮を追い続けた。そして演奏が終わり、万雷の拍手の中、カラヤン氏がいったん舞台裏へ退くと、そこで待ち構えていたカメラが回った。

 そのときのカラヤン氏の行動を、誰が予想できるだろう。観客の拍手に笑顔で応えながら舞台裏へ引き上げたカラヤン氏は、おそらくそのためにいつも準備されている椅子に直行し、腰を下ろし、一言も口をきかず、うつむいたままブルブルと震えだした。幕の向こうから聞こえるのは、鳴りやまぬ拍手とどよめき。その華やかさとは全く対照的に、この楽屋の光景は暗く静かで、異様だった。付き人の爺さんが、いつもの通りといった感じの手慣れた手付きで、優しくいたわるように、カラヤン氏の肩に毛布を掛けた。それでもなお、カラヤン氏はうつむいたままブルブルと震えていた。自分がたった今演奏し終わったベートーベーンの音楽に、その偉大な芸術に、おそらく感極まったのであろう。極度の興奮状態で、茫然自失の体だったのである。

 寸刻の後、付き人の爺さんにうながされて、カラヤン氏は立ち上がり、舞台に歩み出て、再び観客の前に姿を現した。その姿を舞台正面のカメラがとらえる。カラヤン氏は両手を挙げ、満面の笑みをたたえて、観客の拍手に応えた。その直前とは別人のようであった。



ーーー3/22ーーー 娘の高校受験

 三番目の子、最後の子が高校受験に合格した。松本深志高校。上の二人と同じ高校で、この地域で一番の進学校である。

 運動面では際立った能力を示したこの娘を、私は小さい頃からスポーツで大成させたいと願っていた。家族は違う意見だったかも知れないが、私は、女性が充実した人生を送るには、この国に於いては、スポーツなどの特技を生かすことが一番だと考えていた。結婚して家庭に入り、子供ができても、一つのスポーツで特別な能力があれば、指導者として地域社会に貢献でき、その結果として周囲から尊敬され、良い人間関係を築き、楽しい人生が送れると考えたのである。

 しかし、娘を取り巻く状況は、次第に第一線としてのスポーツ選手に向かう道を閉ざしていった。指導環境に恵まれた大都会でない限り、そしてまとまった資金がない限り、そのような大それた願いは実現できないように思われた。

 娘自身も、スポーツで高校へ行くよりは、進学校へ進むことを希望した。上の二人の子供たちの影響もあったかも知れない。いやそれ以前に、我が家は塾や家庭教師などの受験産業には一切無縁であったが、勉強の価値には重きを置いていた。スポーツよりも勉強に向いた家庭環境だったのである。

 その後気がついたのだが、歌舞伎役者の子供が歌舞伎に進むように、政治家の子弟が代議士になるように、スポーツ選手もスポーツに恵まれた家庭環境から出るものなのだと思う。本格的なスポーツに縁がなかった我が家で、何もかもを投げ出して、一流スポーツ選手を育てることは、しょせん無理だったのである。

 スポーツしか取り柄のなかった娘は、三年の夏に部活を引退しても、受験体制にすんなりと移行はできなかった。正月が明けても、だらだらしていて、勉強に身が入らなかった。公開模試の成績も下がってきた。私は三人の子供の中で初めて、真面目に勉強をしろとハッパをかけた。乗るか反るかを賭けて、厳しく諭したのである。娘は無意識のうちにそのようなハッパを待っていたのかも知れない。その日を境にして、猛然と勉強をするようになった。

 一旦やる気になると、小さい頃からスポーツで鍛えた体力と集中力と勝負強さが助けになったようである。もともと勉強が得意だった上の二人よりも熱心に勉強をした。50日間で、顔つきまで変わった。この猛勉がなくても受験は成功したかも知れないが、この努力によって受験というチャレンジは大きな成果を娘の内に残したと思う。

 何がどのような形でプラスに働くか、分からないものである。永年に渡って親しんできたスポーツが、早くも娘の人生の助けになったように、私には感じられた。だが、そのような感じを抱くのも、まだ私の中に娘のスポーツでの活躍に未練があるためだろうか。



ーーー3/29ーーー HP改訂

 このホームページの、作品紹介のコーナーを全面的に改訂しました。遅きに過ぎた感もありますが、いらいらをつのらせていた読者の方には、改めてお詫びを申し上げます。

 作品数を12点から47点へと、大幅に増やしました。今後も折りに触れて、増やしていく予定です。また、サムネイル画像(一覧に使う小さな画像)を廃止し、代りに家具のジャンルごとのリストにしました。この方が見やすいというご指摘に応えました。

 このホームページを開設した当時は、プロバイダ−から提供される無料枠の容量が10MBでした。この程度の容量では、多くの画像をアップすることはできません。そんな理由から、作品の数は絞らざるを得なかったのです。そして、作品が少ないのをカバーする意味で、テキスト(文章)に力を入れました。テキストならほとんど容量を食わないからです。

 その後、無料枠は50MBになり、現在では100MBまで増えました。そんな経緯から、ここへ来てようやく掲載する作品の数を増やしたというわけです。今回の改訂で、使用している容量は25MBとなりました。

 これまでは作品の数が少なく、やたらと文章が多いホームページになっていました。「頭でっかち」な印象を与えたことは否めないと思います。作品作りよりも文章書きに熱心な、「変な木工家」とのイメージも有ったかも知れません。しかし、私にとって文章を書くことはあくまでも余技であり、普段熱心にやっているのは木工家具作りです。今回の改訂をもって、ようやく木工家らしいサイトになった感じがします。

 これからも、アクセスして下さる方々に、丁寧で行き届いた情報をお伝えすべく、工夫を重ねていくつもりです。引き続きご感想などをお寄せいただき、ご指導を賜れば幸いです。  




→Topへもどる